加納実紀代 Mikiyo KANOH
Profile
加納実紀代(かのう・みきよ)は1940年、日本統治下の京城(現ソウル)生まれ。2019年没。
陸軍軍人の父の転勤で国内へ戻り、1944年に広島市に移住する。’45年8月6日に被爆し、父を亡くし、母の実家近くの香川県善通寺市で成長する。’63年京都大学文学部卒業後、中央公論社へ入り、担当した『暮しの設計』の編集方針に疑問を抱え、’68年に退職。同年、アジア・アフリカ語学院に入学。学院へ配布された「侵略=差別と闘うアジア婦人会議」のチラシを見て’70年8月のアジア婦人会議に参加し、その後同会議のリーダー、飯島愛子と出会う。
加納は、出版社の下請けの仕事で戦争中の生活を調べ、女性たちが単なる被害者ではなく、生き生きと銃後を支えていたことに驚いたことから銃後史研究へ踏み出していった。1976年、「女たちの現在(いま)を問う会」 を結成。以後20年かけて『銃後史ノート』全10巻(JCA出版)、『銃後史ノート戦後篇』全8巻(インパクト出版会)を発行。前者は第5回山川菊栄賞受賞。’85年には、パートタイマーの立場から「社縁社会からの総撤退を」(『新地平』11月号)を唱え、広範な論争を巻き起こした。
1990年代は「母性」と天皇制、’90年代後半からは「ヒロシマ」をジェンダー視点で検討し(江刺昭子らとの共著『女がヒロシマを語る』インパクト出版会、1996年)、2000年代はひろしま女性学研究所で女性とヒロシマに関する連続講座を担当した。’02年から’11年まで、敬和学園大学特任教授を務め、新潟と自宅のある川崎市を行き来する。’11年の3.11の原発事故に衝撃を受け、以後、原子力の平和利用と広島の関わりを追究する(『ヒロシマとフクシマのあいだ』インパクト出版会、2013年)。’11年1月の敬和学園大学における最終講義は「カッチャンはなぜ死んだか―ヒロシマから考える日本近代」。「カッチャン」は被爆直前、一緒に遊んでいた男の子である。